【竹田一平選手】インタビューPart.1-覚醒への布石-

バージョン 2

5月の水戸国際、この日注目されていたのは、昨年の100・200mユース世界チャンピオン・世界選手権200mセミファイナリストのサニブラウン・ハキーム選手(城西大城西高)。しかし、主役の座を奪ったのは、竹田一平選手(中央大・2年)でした。予選で向かい風2.1mの中、10.29という素晴らしい走りを見せて俄然注目を集めます。迎えた決勝でも、サニブラウン選手を制して、10.27(+1.0)の大会新をマーク。速さと強さを証明しました。

高校時代はインターハイ予選で落選など、全国大会での活躍には至らなかった竹田選手。劇的な成長の要因はどこにあるのか。史上最高レベルにある日本スプリント界に挑む新星に迫りました。

(2016年6月10日中央大学多摩キャンパスにて)


-今日はよろしくお願いします。

竹田選手
よろしくお願いします。

-まず、陸上をはじめられたきっかけから、教えていただけますか。

竹田選手
きっかけは、小4から始めたと思うんですけど、姉が陸上をやっていて。それを見て影響を受けたのと、同じタイミングで友達からも誘われて、草加ジュニアというクラブチームがあって、そこに誘われて。小学校のときはけっこう足が速い方でした。でも、なぜか幅跳びやっていたんですよね。当時はサッカーも同時にやっていたんですけど、個人種目のほうが絶対にあっていると気づいたんです。コンタクトスポーツがほんとに向いていなくて、「どうぞどうぞ」と譲ってしまうんですよ。サッカーではそれじゃあ通用しないですから、辞めようと。

-性格的に優しい部分があるんでしょうか。

竹田選手
気心知れた人にはわがままも言うんですけど、そうでないひとには「どうぞどうぞ」という点が強くて。高校時代の友達はそんなことないだろうと言うかもしれないですけど(笑)。

-部活動として取り組み始めたのは中学校からですね。その時から幅跳びを中心に始められたんですか。

竹田選手
はい、幅跳びやってました。

-先ほどは「なぜか幅跳び」とおっしゃっていましたが、中学校で幅跳びを選択された理由はなにかあったんですか

竹田選手
幅跳び兼100mでやっていたんですけど、100mって派手な感じがするじゃないですか。自分はこれまで派手な選択をしてこなくて、小学校の時もそうでした。当時、速い奴がいたんですよ。どうしてもそいつに勝てなくて、「自分はもう幅でいいや」と。始まりはポジティブなイメージはないですが、中学に上がった時には幅跳びが好きで好きでたまらなかったですね。
-中学当時の幅跳びの記録はいかがだったんですか。
竹田選手
6mに届かなかったです。中3の時は、県大会で予選落ちしたと思います。当時は、部の人間関係があまり良くなくて、早く引退したいと思いながらやっていました。でも、通信陸上では県で3番くらいに入ったんですよ。姉が幅跳びで関東大会に行っていて、「これはもしかしたら追いつけるんじゃないか」と思いました。それでがむしゃらに練習したら、足が踏切に合わなくなってしまって。「思い切り走って思い切り跳ぼう」みたいになってしまいました。それで中3の幅跳びもあまりよくない中で引退して、受験勉強に入っていきました。
-不動岡高校に入学されます。
竹田選手
受験勉強を始めるまで偏差値50ちょいだったんですけど、受験勉強をはじめて一日10時間以上勉強したら、けっこう上がっていきまして。不動岡かもう一校かにしようと。それぞれの陸上部を見て、不動岡は陸上部だけのグラウンドがあったんですよ。直感で選びましたね。
それと、友達がだれ一人いないところに行きたいと思っていて。中学も学区外に行っていて、だれも自分を知らないところに身をおいてきていて、それが結構好きということもあって、不動岡を選びました。知っている人がだれもいなくてもやっていける自信があったので、不動岡で大丈夫だろうと。
-ちなみに得意科目は。
竹田選手
国語と英語が得意でしたね。なのに理系にいっちゃって、高校では理系クラスでした。物理が好きでした。当時は、パイロットになりたかったんですよ。大学2年になったら航空大学校入ろうと思っていたんですけど、喘息持っていてダメだったんです。パイロットの夢が絶たれたくらいから、陸上を本気でやるようになりました。高1の冬かな。周りがよく勉強する人が多くて、人と違うことをやってみたいと思って、あえて部活を頑張ってみようというのもありましたね。
姉はインターハイでマイルで決勝に残っていたりもして。自分が受験勉強に入った頃の話で、当時は「インターハイってなんだろ?」って感じだったんですけど、高校入ってから「インターハイってすごいじゃん、姉頑張ってたんだ」、と知ったのもあります。
-高校時代は三段跳びをやられていました。
竹田選手
高1からやっていましたね。中3あたりから三段跳びを見るのが好きで。高校に上がって陸上部に入って、それで三段跳びをやるようになって、すごい楽しくて。ずっと三段跳びをやるんだろうと思っていました。幅跳びより楽しくて。快感でしかなかったです。
-記録としてはどこまで残されたんですか。
竹田選手
高2で14m25とかでした。関東新人にも出れて、初めて関東に行けたのが、嬉しかったですね。
-今振り返ると、跳躍系種目への適性はどのように感じてらっしゃいますか。
竹田選手
性格上も向いていたと思います。自分のペースで出られるじゃないですか。ピストル撃たれたら出ないといけないとかなくて、60秒以内に出ればいいので、それがすごい向いていたと思います。でも、身体が向いていなくなってしまって。助走が合わなくなってしまったことと、腰を痛めてしまいました。顧問の先生と相談して、自分の意志でもあるんですけど、100mに出ようかということになったんです。そしたら結構初戦でも良くて。そこから100mに転向しました。
-高3の時ですね。10.61まで記録を伸ばされました。初めてのレースはどれくらいの記録だったんですか。
竹田選手
初戦は覚えていないのですが、高2でたしか10.79だったんですよ。日本ユースはぎりぎり期間が間に合わなくて出れなくて、という思い出がありますね。
-高2で10.79なら、これはイケるという想いになったんじゃないでしょうか。
竹田選手
それが、11秒がどれくらいで、全国的にどれくらいで、10秒台出したらどの程度のレベルなのかを知らなくて。なにが良くてなにが悪いかわからない状態で高2までは走っていました。
-インターハイでは、予選敗退となりました。あの時のレースを今振り返られるといかがですか。
竹田選手
なんていうんですかね、100mのことをわかっていないので、ド緊張しちゃって。一回フライングがあったんです。それでパニックになって。もう一回やり直した時には、もう…。今年の関東インカレのレースと同じですね(10.65で準決勝敗退)。スタートで出られておしまいです。
あっという間に終わってしまったような感覚だったんでしょうか。
竹田選手
「あ、終わったな」と。陸上辞めたいってずっと言っていました。まだ200mがあったんですけど、スターティングブロックのセッティングから何から知らなくて、関東大会までは前の人のスタブロの位置をそのまま使っていました。それくらい200mがわかっていなくて。それで、インターハイの200mの予選の前のアップで、スタブロの使い方を教えてもらって。タイム出るわけ無いですよね。100mが終わった後に200mでは切り替えろ、と言われたんですけど、そんな状態なので200mがムリなことはわかっていたので。燃え尽きてしまっていました。
-高3のシーズンを今になって振り返られると、いかがですか。
竹田選手
こんなこと言うと偉そうな感じですが、インターハイは行けると思っていたんですよ。インターハイでは勝負しようと思っていました。でも、今と比べると精神的に格段に弱いんですよ。周りに言われたらすぐ影響を受けるし、スタート前も集中できないし、100mを走り終わっても切り替えられないし。精神的にも、技術的にも、体力的にも未熟で。陸上をわかっていないし、調整もできないし。そういう状態で出ていたので、そりゃそうだよねという結果しか出なかったですね。
-中央大学を志望した理由を教えてもらえますか。
竹田選手
短距離が速い大学は中央大学しか知らなかったので、中大に偏った憧れを持っていました。「中大は速い」。それ以外の陸上のことは、陸上雑誌も読まないので知らなくて。自分でも速いと知っている中大って相当速いんだろうなと思って、高校1年のときからずっと憧れていました。

竹田選手がパイロットの夢を諦めざるをえなくなった時、溢れるエネルギーの行き場が陸上競技でした。しかし、熱中していた跳躍種目もケガの影響で断念。中学時代も、なかなか満足のいく陸上生活を送ることはできなかったといいます。主戦場をトラックに移してからも、飛躍の時を迎えるまでには、今しばらくの時間を要します。
それから2年、大きな成長を遂げた竹田選手になにが起きたのか。Part.2では、その要因に迫ります。




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