【山縣亮太選手】インタビューPart.1 -雌伏の時を超えて-

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完全復活ー。山縣亮太選手(セイコーホールディングス)の切れ味するどい走りが帰ってきました。力強さを増した走りで、史上最高レベルにある今期の日本スプリント界をリードします。4月の織田記念で復活の狼煙を上げると、5月の東日本実業団で五輪参加標準を突破する10.08(+2.0)、6月の布勢スプリントでは10.06(-0.5)の自己ベストをマーク。ゴールデングランプリ川崎に続いて、桐生祥秀選手(東洋大・2年)に勝利しました。オリンピック日本人最速タイム(10.07)保持者は、再び世界へ勝負を挑みます。
インタビューは全4回。初回はこれまでの競技生活を振り返っていただきました。ここ3年間のケガと向き合い続けた日々から、再び充実のシーズンを迎える山縣選手が、チームと歩む世界への道のりを語ります。
(2016年6月18日慶応義塾大学日吉キャンパスにて)

-まず来歴からお聞きしたいと思います。陸上を始められたきっかけを教えていただけますか。
山縣選手
陸上は小4のときにはじめました。2つ上の兄がいまして、広島市の大会に兄が小5の時に出て、入賞して帰ってきたんです。そのときにでっかい賞状を持って帰ってきたのを羨ましく思って、「ぼくもこの大会にでる」と。当時は小3だったので、来年になったら絶対に出ると決意して、小4のときに出て優勝したんですよ。それがきっかけで陸上クラブから誘われて、始めたのがきっかけです。
-小学校時代から100mだったんですね。当時の記録はいかがでしたか。
山縣選手
小6当時の記録は12.96です。
-その後、修道中学校に進まれます。どういったきっかけがあったんでしょうか。
山縣選手
習い事の一環で塾に入っていて、自然な形で勉強にも取組んでいました。僕は中学受験をするものなんだと思っていたので、中学受験自体には特に大きな理由があるわけではないです。ただ、なぜ修道中学校かといえば、大きな理由として陸上部があることというがありました。当時目指していた学校で、陸上部は修道しかなかったんです。
中学時代の記録はいかがだったんでしょうか。
山縣選手
6月9日の大会で、ぼく6月10日が誕生日なんですけど(笑)、中学時代のベストである11.24を出したんですよ。全日中標準が当時11.30だったので、それをギリギリクリアするっていうレベル。肝心の全中はどうだったかっていうと、リレーも個人も予選落ちという結果でした。
-そこから翌年の国体少年B100m、10.65(+0.9)で優勝されます。急成長ですね。
山縣選手
急成長と言っていいですね、中3で11.24を出してから、ケガをしたんですよ。鍼治療で広島の仲良くしてもらっている治療院に通い始めたのがその時で。ケガが治ってからは、秋冬にすごいがんばりました。坂ダッシュを主にやって。そうしたら、高1は春ぐらいから追い風参考で10秒台が出たりとか。調子が上がっているなというのを実感していました。
-あのレースもスタートから飛び出して、圧勝でした。
山縣選手
国体は本当に良いレースだったと思います。あの時点での自己ベストを出せたので、良かったです。
-高1で素晴らしい結果を残され、高2で世界ユース代表になられます。その後のインターハイでの結果は不満が残るもの、という年だったんでしょうか。
山縣選手
そうですね、骨折をして、世界ユースまではなんとか足も持っていてくれたんですけど、インターハイくらいからはダメでした。
-高3時に素晴らしい記録をマークされることになりますが、高2の冬に取り組まれたことについて、教えていただけますか。
山縣選手
筋トレを頑張りましたね。ウェイトトレーニングというほどのものではないんですけど。全くやっていなかった体幹トレーニングをはじめました。走れるようになるまではそのトレーニングを中心に、バイクを漕いで肺活量を鍛えたりしながら、出来る限りのことをやっていました。
-そして迎えた高3のシーズンですが、インターハイまではご自身が想定されたものとは違ったんじゃないかと想像していますが、いかがでしょうか。
山縣選手
県総体で追い風参考で10.36っていう記録を出すことができて。これは自分の中では殻を破ったレースだったかなと。「あ、自分は10.3台で走れるんだ」と思えたレースでしたね。インターハイ優勝が現実味を帯びてきたんですが、本番は固くなって3位でした。
-どのように振り返ってらっしゃいますか。
山縣選手
やっぱり、全国の舞台が久しぶりだったことと、骨折は本当に大きな怪我だったので、「自分は戻ってこれているんだろうか」っていう不安を抱えながらのインターハイだったんですよ。絶対優勝したい大会だと意気込んでいた大会だからこそ、力みにもつながったというのもあります。あまり自分のレースができたという印象はないですね。
-気持ちの面でちょっと、
山縣選手
ええ、後手に回っていたかなと。
-その後、国体で10.34をマークされて優勝します。インターハイからどのように立てなおしていかれたんでしょうか。
山縣選手
インターハイでの反省は、自分の走りをする、ということ。自分が力まずにちゃんと走れれば、勝てる、という手応えはインターハイで掴んでいたので、自分の走りに集中することをメインのテーマに掲げて2ヶ月間、過ごしていました。
-準決勝で10.3台を出して、高校記録への意識はあったのでしょうか。
山縣選手
しなかったわけではないんですけど、10.2台と3台って僕の意識の中では壁があって。どんなに頑張っても3台しかでなかったって想いが強いんです。国体もすごい集中力で、身体の状態も良かったにも関わらず、結局3台だったっていうことで、「たぶんこれはとんでもない風が吹かなければ、高校記録は狙えないな」とは思っていました。
-準決勝の走りを見て、条件次第ではこれは、と周囲の期待は高かったかと思います。
山縣選手
ただやはり準決勝で、追い風+1.7で10.32だったので、条件は良かったんです。これ以上は見込みはないな、っていうのはありました。
-翌年、慶応義塾大学に進学されて、1年時に10.23(+1.8)のジュニア日本記録(当時)をマークされました。順調だったんじゃないでしょうか。
山縣選手
いや、大学1年は辛抱の年でした。ぼくとしては、ジュニア日本記録はたまたまという感覚が強くて。とにかく辛抱のシーズンで、幸いにもケガはなかったんですけど。大2のシーズンはすごい良いシーズンでしたけどね。
-大2シーズンは、完全に覚醒されていたと思うんですけど、大1から大2への成長の要因は、どのあたりにあったんでしょうか。
山縣選手
細かい話をするとたくさんあるんですけど、直接的な大きな要因になったのは、その年の3月にあった日本陸連の合宿です。当時は土江コーチ(寛裕・現東洋大陸上部コーチ)がいて、朝原宣治さんなど、名のある選手だった方々に直接指導してもらいました。ぼくの走りの課題への指摘を受けて、自分が受け入れることもできて、変われる大きなきっかけになりました。
-その後、大2でロンドンオリンピックにも出場されて、翌年からはケガで苦しむシーズンが多かったと思いますが、どういった点に原因があると思われますか。
山縣選手
やっぱり、ケガをしてこなかったっていうのが、一番の自分の落とし穴だったと思います。骨折はしましたけども、肉離れの経験は大2までなかったので、どこまですれば肉離れするか、どういう状態で、どういう走りをしたら肉離れするのか、っていうセンサーがなかったんですよ。それで、知らないうちに無理をしてしまったのかなと。あとは単純にスピードも出ていたので、ハムストリングスに掛かる負担は大きかったんだろうなと思います。
-ロンドンオリンピック直後の日本インカレで大きなケガをされていました。あのころからでしょうか。
山縣選手
あれが右のハムストリングスなんですけど、それが治って2013年のシーズンは左側のハムをやって。肉離れはそれが最後ですね。
-その後は腰ですね。
山縣選手
ハムをケガして、腰に異常が出るというのは必然的なことだったと思います。自覚はないんですけど、やっぱり動作の中でハムストリングスを使えない動きになっていたかなとは思います。
-昨年、社会人1年目は苦しんだと思うんですけど、今期の飛躍はなにが大きな要因だったのでしょうか。
山縣選手
それこそたくさんあるんですけど、自分自身の取り組みという意味では、ケガとしっかり向き合う時間をつくったということですかね。あとは自分の不完全な状況を受け入れて、トレーニングを積んでこられたことが要因だと思います。
-マネジャーの瀬田川さん、コーチの古賀さん、フィジカルトレーナーの仲田さんと、チーム内で検討し合いながら、メニューを組み立てていくんでしょうか。
山縣選手
そうですね、基本的には全員でコミュニケーションを取りながらです。僕の考えも多少あるので、古賀さんがたてたものに対して相談をしながら、ウェイトをどう入れていくのかは仲田さんに相談しながら、みんなが納得する形でトレーニングを組み立てていっています。
-これまで陸上の超名門という環境には身を置かれてきませんでしたが、そこには自分で考えて組み立てていきたいという想いが強く現れているのでしょうか。
山縣選手
結局自分がわかっていないと、何が必要なのか自分で考えられる能力がないと、いずれ一人になった時にやっていけなくなるんじゃないか、そういう想いは大学を選ぶときにありました。早いうちに自分でものごとを考えられる環境に身を置く、というのは意識的にしていましたね。
-現在も特定の指導者の下ではなく、チームでやっていくということに、これまでのそうした経験が反映されているんでしょうか。
山縣選手
ありますね。積極的に考えられる姿勢と周りのサポートがあって、今の充実した自分がいるんだろうなと思います。

 好記録・好結果の後には、度々ケガに悩まされた山縣選手。しかし、その度に壁を超え、さらなる強さを獲得してきたことが伝わってきました。過去の記録を、日付や風速まで含めて正確に記憶されているのには驚かされました。山縣選手のインテリジェンスの一端を垣間見た想いです。
Part.2では、山縣選手の勝負強さの秘密に迫ります。オリンピック100mでの日本人最高記録や競り合いでの強さに見られる、山縣選手の勝者のメンタルに迫ります。




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