北京2008オリンピック。日本は史上初めて、4×100mリレーでのメダルを獲得しました。今や、世界トップへとひた進む短距離チームの躍進は、加速度を増していきました。この時、快挙を果たしたリレーメンバーの3走が、高平慎士選手。200mを専門とする3走のスペシャリストです。小学校時代には100m、中学高校と110mHに取り組みながら、高2以降は一貫してショートスプリントの舞台で闘ってきました。輝かしいキャリアを残した高平選手は、9月22日からの全日本実業団対抗陸上競技選手権で、そのスパイクを脱ぎます。これまでの歩みを振り返っていただき、その経験を次の世代へと受け継ぐ言葉として語っていただきました。
(2017年9月5日・味の素ナショナルトレーニングセンターにて)
-引退レースを間近に控えられたタイミングで、非常に貴重なお時間をいただきありがとうございます。
これまで高平選手が重ねられたキャリアの中で大きなターニングポイントがいくつかあったんじゃないかと思うんですが、その時に感じられていらっしゃったことをはじめ、速さの秘密、オフの姿、盛り上がりを見せる日本スプリント界への提言など、お聞かせいただければと思います。

-さて、引退レースを目前に控えた今の心境はどういったものなのでしょうか。

今年の日本選手権に出られないと決まってからでしょうか。夢とか目標がない中で陸上をやることって、こんなにも難しいんだな、というのは凄く感じましたね。やっぱり夢とか目標ってすごく大事なんだなって、改めて感じられたこの2~3か月でした。
-シーズン当初は、ロンドン世界陸上出場を念頭に置いてのシーズンだったかと思います。日本選手権に出られないことが決まったタイミングで、ご自身の心境は区切りがついたような気持ちになったのでしょうか。


-その時は110mHをやられていたんでしょうか?

-その全日中、優勝は逃していますね。

-その後、高1のジュニアオリンピックで優勝されるまでは、110mHを主戦場とされています。どういった形で高2からのショートスプリントへの転向につながっていくのでしょうか。

そこから高2の秋に先生に、「110mHを走る選手は200mくらい走れなきゃいけない、体力が絶対必要だ」と言われ、練習の一環で秋の大会で200mに出ました。その一発目のレースが北海道高校記録だったんですね。それで200mの方が通用するんじゃないかと思えたのと、熊本IHの100m決勝は8人中5人が当時の僕ら2年生だったんですよ。トップが相川(誠也・市立船橋)くんだったんですけど、彼は1999年の全中100mも優勝していて、やっぱり100mに対しての戦術だったり、取り組み方が長けていると思っていました。もちろん勝負したいとは思ってましたけど、優勝することを考えたら、200mの方が道筋を立てやすいかなというところもありまして、先生と話して200mでと。110mHどころか100mにも区切りがついているような感じで、高2のシーズンを終えました。
-私も熊本IHはスタジアムで観ていました。前年に110mHでジュニアオリンピックに優勝してたので存在は知ってたんですけども、100mでここまで伸びるのかと、驚いた記憶があります。高1から高2にかけての冬期の取り組みで、大きく飛躍するきっかけがあったのでしょうか?

-熊本IHの100m決勝には同学年が5人残ったというお話。特に相川誠也さんの存在が大きかったことがうかがわれます。全中を制覇し、高1の国体も制覇。IHは高2が2位で高3では10.30で優勝しています。同学年にこれほどのショートスプリンターがいたということは、高平選手にはどのような存在と映っていたのでしょうか?

-外から観ている分には、高平選手も同じ空気の中で戦っていると思っていたんですが、どちらか言うと少し押される部分も。


決勝では調子が悪いなと思っていたくらいだったので、「最後だし、せっかくの舞台なんだから楽しまなくちゃいけない」と。100mのメンバーも、(一学年)下の塚原(直貴・東海大三)くんも残ってましたし、この中で一番を取れるんだったら開き直って行こうかなと思ったのが凄く良くて。後半は(高平・相川・野田の)3人ほとんど変わらなくて、前半どれだけ行けたかが勝負の分かれ目でしたね。気持ちの切り替え方がうまくはまった感じで。勝てる確信があって臨めたというより、自分のレースができたというのが一番大きかったと思います。
-100mのファイナリストが他に4人いる中で、スタートから高平選手が飛び出し、20.97(±0)で優勝するというレースでした。IHでは当時まだ二人目の20秒台。前半から一人抜け出した高平選手は、やはり200mの走り方をわかっていたのが大きかったのでしょうか?



2003年の日本選手権は、一番いい観客席で日本記録を見れたというくらいの感覚だったんですよね。レースに参加してるんですけど、参加してないような感じもあって。そこが凄くもったいないなと感じたことが大きくて、翌年、オリンピック選考会である日本選手権、末續さんがいなくて誰が勝ってもおかしくない感じでしたし、その中で戦えるという事をどれだけ楽しめるか、開き直ったことが凄く良かったと思います。
そして迎えたアテネ2004オリンピック。個人のレースでは予選敗退と、思い描いたレースではなかったかと思います。今振り返られていかがでしょうか。

競技以外のことをしている時のことを覚えてますね。それくらい忘れたいのかもしれないし、思い出せるほど何も感じて来られなかった。そういった意味では自分の競技人生の色んなものが根底から覆されたというか。こんなに自分は小さかった、脆かったんだなと思わされた大会ではありましたね。
-競技人生のターニングポイントになったんでしょうか。

-翌年の日本選手権も制覇されて、2006~2007は末續選手が再び200mに参戦。このころには高平選手は日本代表の常連となっていますが、2007年大阪の世界陸上、北京2008オリンピック、今振り返られるといかがでしょうか?

-2007年は、振り返ると日本スプリントの躍進が本格化した年かもしれません。そして翌年の北京2008オリンピック、あのレースも逆境からの大逆転だったかと思います。予選を突破して決勝を迎えるまでの一晩、各種報道でも多く発信されましたが、改めて選手間同士での空気や会話はどんなものだったのか教えていただけますか。

今の選手たちは、手が届くんじゃないかとそわそわすることはないと思うんです。メダル獲得のために行っていると思うので。僕らが先輩たちから受け継いできたものを、今の彼らがものにしてくれている、素晴らしいチームが脈々と受け継がれているのかなと。結局はメダルを目指しているし、メダルを取るべき種目であるというところまで到達して、継続されているという事は色んなものが残っているという証だと思うので。僕らはたくさんの経験をさせてもらいましたけど、見えないバトンが受け継がれているのは確かだと思うので、これからはさらに一番上を目指してやることになっていくのかなと思います。

-このシーズンには、日本のリレーチームでも高平選手がリーダーという立ち位置になっていたかと思います。朝原さんが引退、末續選手が休養に入って代表チームから離れられた時、高平選手の中で代表チームへの想いというのは、どのように変わられていったのでしょうか?

-2011年に再び日本選手権を制覇されて、翌年にはロンドン2012オリンピックに出場。ここで新たなメンバーとして飯塚翔太選手、山縣亮太選手が入ってくる。年齢的には高平選手より少し離れた選手たちとのチームで、2009年の多少わがままにという想いとの違いはありましたか?

競技生活最後の話になります。2013年以降、非常に若手が台頭してきて高平選手に挑んでくる、もしくは超えてくる結果を残す状況になってきました。2000年代中盤に高平選手がいた位置に他の選手が入ってくる状況を、ご自身ではどう感じていらっしゃったんでしょうか?

負けてメディアで取り上げられる選手が、やはり一流の証だと思います。あの時、負けましたよって、陸上界で言ってくれる選手ってそんなにいないと思うんですよね。そういう風に感じていただける、知っている人がいるということは、僕は凄くありがたいことだと思っていて。
踏み台にして、と言ったら自分のことなのにおかしいですけど(笑)。日本のトップになるということは、一人で競技をやっていることではないので、決勝で7人に勝たなければならないわけですし、代表になるためにはすべての人間を蹴落とさなければならないわけです。誰かがそこに立つということは、誰かがそこに立てないという事の証でもあるので、そういったことをどれだけ感じて自分のその後に活かせるか。負けが納得いかなくて全てをふいにするかどうかは、選手にとっては分かれ道でもあると思います。あまり、悪い風に受け取ることはなかったですね。負けたら負けたでその年の日本選手権者はその人だし、代表はその人なので。もちろんその人が世界大会に行けば頑張ってほしいとも思う。日本代表の男子短距離において、僕が素晴らしいと思っているのはそこができているところであって。誰が行っても結局納得できるというか、そのくらいのレベルで戦い始めているので。2008年当時はやっぱり大阪世界陸上のメンバーが行かなきゃだめだよねっていう雰囲気があった。僕はその時点でちょっと日本として弱いなと思っていたので。そういうことが今はない。それで結果も残ったということは、素晴らしいチームになってきているのかなと思う部分です。
その長いキャリアで高平選手が見てきた景色をお話いただきました。勝利を掴み取ったレースでも、実は非常に苦しい状況だったり、わがままに取り組んだシーズンがあったり。世界の舞台を踏んできただけではない、様々な経験が高平選手の強さの要因の一つであることが感じられました。
part.2では、高平選手ご自身に、その速さの秘密を語っていただきます。