【高平慎士選手】引退直前インタビューpart.1:キャリア20年のレビュー

DSC07126

北京2008オリンピック。日本は史上初めて、4×100mリレーでのメダルを獲得しました。今や、世界トップへとひた進む短距離チームの躍進は、加速度を増していきました。この時、快挙を果たしたリレーメンバーの3走が、高平慎士選手。200mを専門とする3走のスペシャリストです。小学校時代には100m、中学高校と110mHに取り組みながら、高2以降は一貫してショートスプリントの舞台で闘ってきました。輝かしいキャリアを残した高平選手は、9月22日からの全日本実業団対抗陸上競技選手権で、そのスパイクを脱ぎます。これまでの歩みを振り返っていただき、その経験を次の世代へと受け継ぐ言葉として語っていただきました。

(2017年9月5日・味の素ナショナルトレーニングセンターにて)


-引退レースを間近に控えられたタイミングで、非常に貴重なお時間をいただきありがとうございます。
これまで高平選手が重ねられたキャリアの中で大きなターニングポイントがいくつかあったんじゃないかと思うんですが、その時に感じられていらっしゃったことをはじめ、速さの秘密、オフの姿、盛り上がりを見せる日本スプリント界への提言など、お聞かせいただければと思います。

高平選手
はい、よろしくお願いします。

-さて、引退レースを目前に控えた今の心境はどういったものなのでしょうか。

高平選手
特に、最後だからと何かが違うことはほとんどなくて、競技に取り組む姿勢だったり、環境はほとんど変わらないです。でも陸上以外でのお仕事も陸上に関わりながら増えているのは事実ですし、周りの見方が「選手」からどんどん「そうじゃない立場」に変化し始めているなというのは凄く感じます。
今年の日本選手権に出られないと決まってからでしょうか。夢とか目標がない中で陸上をやることって、こんなにも難しいんだな、というのは凄く感じましたね。やっぱり夢とか目標ってすごく大事なんだなって、改めて感じられたこの2~3か月でした。

-シーズン当初は、ロンドン世界陸上出場を念頭に置いてのシーズンだったかと思います。日本選手権に出られないことが決まったタイミングで、ご自身の心境は区切りがついたような気持ちになったのでしょうか。

高平選手
区切りがついたという気持ちはそんなにはなかったんですけど、今年引退される日本の選手やボルトもそうですし、区切りの年の流行りなのかなというイメージも僕の中ではありました。「神様がもういいんじゃないの」って言ってるような気がしないでもないし、「そろそろ区切らなきゃいけないのかな」とは思っていたので。いろんなことが重なってタイミングが良かったのかな、と。いろんなものを背負ったり残したりするような立場でいられるうちに、セカンドキャリアに活かしていけるタイミングで辞められるというのは、自分の中では良かったのかなと思います。
-なるほど。それではここから時計を一気に巻き戻して、陸上を始められたタイミングから順に伺いたいと思います。高平選手は中学から陸上に取り組まれてらっしゃったかと思います。

高平選手
ええ、本格的には。

-その時は110mHをやられていたんでしょうか?

高平選手
小学校の時、100mと幅跳びをやっていました。そのままの流れで本格的に陸上をやることになって、最初は100mをやってました。中2になる時に、全国大会で一番を狙うより、将来的なことを考えて色々な種目に取り組もうと先生と話して、110mHに取り組むことになりまして。110mHで全日中に出ているんですが、100mと110mHをかけ持つ選手が中々いないので、同じ日にタイムテーブルが組まれていたんですよ。どちらかの種目しか出られない中で、100mだと優勝するのは厳しいから、優勝を狙えそうな110mHにしようかな、と選びました。

-その全日中、優勝は逃していますね。

高平選手
はい。4番でしたね。

-その後、高1のジュニアオリンピックで優勝されるまでは、110mHを主戦場とされています。どういった形で高2からのショートスプリントへの転向につながっていくのでしょうか。

高平選手
厳密には高2の年の2001年熊本インターハイ(IH)まで、110mHは進出しています。100mと110mHを並行してやり続けていました。日程的には中学と違って両方出られるタイムテーブルだったんです。この年のIHでは、100mで3番までいけて「しまった」という感じです。そこまで行ける覚悟、準備で臨んでいたわけではないので、100mが終わった時点で脚が結構きつくてですね、110mHはタイム的にもそんなに勝負できるわけではなかったので止めようと。100mが通用してしまったから、移行していった部分があります。
そこから高2の秋に先生に、「110mHを走る選手は200mくらい走れなきゃいけない、体力が絶対必要だ」と言われ、練習の一環で秋の大会で200mに出ました。その一発目のレースが北海道高校記録だったんですね。それで200mの方が通用するんじゃないかと思えたのと、熊本IHの100m決勝は8人中5人が当時の僕ら2年生だったんですよ。トップが相川(誠也・市立船橋)くんだったんですけど、彼は1999年の全中100mも優勝していて、やっぱり100mに対しての戦術だったり、取り組み方が長けていると思っていました。もちろん勝負したいとは思ってましたけど、優勝することを考えたら、200mの方が道筋を立てやすいかなというところもありまして、先生と話して200mでと。110mHどころか100mにも区切りがついているような感じで、高2のシーズンを終えました。

-私も熊本IHはスタジアムで観ていました。前年に110mHでジュニアオリンピックに優勝してたので存在は知ってたんですけども、100mでここまで伸びるのかと、驚いた記憶があります。高1から高2にかけての冬期の取り組みで、大きく飛躍するきっかけがあったのでしょうか?

高平選手
正直特にないです。ただ、高校生の練習ができるようになってきたのは、プラスアルファとしてあるかなと思います。あの頃(の伸び)は肉体の成長だと思っているので、これをやったから結果に結びついたということは明確なものはないですね。

-熊本IHの100m決勝には同学年が5人残ったというお話。特に相川誠也さんの存在が大きかったことがうかがわれます。全中を制覇し、高1の国体も制覇。IHは高2が2位で高3では10.30で優勝しています。同学年にこれほどのショートスプリンターがいたということは、高平選手にはどのような存在と映っていたのでしょうか?

高平選手
そうですね。僕の中では、100mでは正直勝てない相手だという印象がありました。高3の茨城IHはその当時、野田(浩之・大社高)くんと3強と言われてましたけど、100m決勝レース寸前くらいまでには「これは雰囲気的にはもう相川くんだな」と思うくらい、レースが決まったような雰囲気がありました。100mでは彼には勝てないなと思って取り組んでいたことも強いです。やはり、北海道の田舎の学校にいると、市立船橋という強豪校に対して気後れしていた部分も多少なりともあったと思います。IHで優勝する学校は、今でこそ東京高校や関西にも色々ありますが、やはり全国大会での勝ち方を知っている学校は、高校生ながらなんとなく雰囲気で感じるところがありました。そこにいるだけで凄いっていうイメージがどうしても湧いてしまった。

-外から観ている分には、高平選手も同じ空気の中で戦っていると思っていたんですが、どちらか言うと少し押される部分も。

高平選手
100mに関しては勝てると思ってなかったです、正直(笑)。
-100mでは、という話がありました。一方で200mでは、高平選手が本命だろうという空気があったかと思います。200mの決勝にはどのように臨まれたんでしょうか?
高平選手
IHでは、200mは3本を一日でやり切らなければいけませんが、朝から調子悪いなと思っていたんです。初めて試合を投げ出したいなってくらい、嫌だなと思ってました。予選を走っても気持ちがそんなに盛り上がってこなくて。準決勝を走ってみて、少し兆しが見えたかなというくらいで。勝つのはどうだろうっていうぐらいの気持ちでした。
決勝では調子が悪いなと思っていたくらいだったので、「最後だし、せっかくの舞台なんだから楽しまなくちゃいけない」と。100mのメンバーも、(一学年)下の塚原(直貴・東海大三)くんも残ってましたし、この中で一番を取れるんだったら開き直って行こうかなと思ったのが凄く良くて。後半は(高平・相川・野田の)3人ほとんど変わらなくて、前半どれだけ行けたかが勝負の分かれ目でしたね。気持ちの切り替え方がうまくはまった感じで。勝てる確信があって臨めたというより、自分のレースができたというのが一番大きかったと思います。

-100mのファイナリストが他に4人いる中で、スタートから高平選手が飛び出し、20.97(±0)で優勝するというレースでした。IHでは当時まだ二人目の20秒台。前半から一人抜け出した高平選手は、やはり200mの走り方をわかっていたのが大きかったのでしょうか?

高平選手
始めてまだそんなに経ってたわけではないので、200mがどうこうという形ではなかったと思います。僕の中ではあれ以上の自己ベストが出てもおかしくないと思えるレースだったので、完成されたものではなかったです。ただ距離が長い分、どうしても最後までもつか怖くなることはあると思うんですよね。一日1本のレースだったら、勝てていなかったかもしれないです。勝負のあやが重なって、彼らが行けなかったのかもしれないし、僕がうまく行けたって部分があったのかもしれない。それは本当にそれぞれの想い、レースプランなどの要素が重なり合って、たまたま僕が勝たせてもらったというくらいの差でしたから。
-そのレース以降、高平選手が勝負強さを発揮するレースが何度も繰り広げられます。その一つに、アテネ2004オリンピック出場を決めた大学2年の日本選手権200mが挙げられると思います。あのレース、高平選手は本命ではなかったと記憶しています。しかし、高平選手は中盤から抜け出して同タイムですが松田(亮・広島経済大学院)選手を押さえて優勝。20歳でアテネ2004オリンピック代表の座を射止めました。あのレースは茨城IHに近い状態だったと想像するのですが、いかがでしょうか。
高平選手
IHよりひどかったですね。勝てるとも思ってなかったですし、オリンピックに行けると思ってなかったので。申し訳ないことに「行けちゃった」という感覚が、陸上人生の中で最も強いレースです。
-それでも勝った要因は、振り返られると何だったと思われますか?
高平選手
そこに関してはIHと一緒ですね。前年の日本選手権で末續(慎吾)さんに1秒近い差をつけられて、(20.03の)日本記録のレースに参加させてもらったというところがすごく大きいですね。
2003年の日本選手権は、一番いい観客席で日本記録を見れたというくらいの感覚だったんですよね。レースに参加してるんですけど、参加してないような感じもあって。そこが凄くもったいないなと感じたことが大きくて、翌年、オリンピック選考会である日本選手権、末續さんがいなくて誰が勝ってもおかしくない感じでしたし、その中で戦えるという事をどれだけ楽しめるか、開き直ったことが凄く良かったと思います。

そして迎えたアテネ2004オリンピック。個人のレースでは予選敗退と、思い描いたレースではなかったかと思います。今振り返られていかがでしょうか。

高平選手
正直、本当に200mも4継も全く覚えてないです。誰と同じ組だったかも今思い出せないくらいです(笑)。代表を目指してやっていた選手たちには申し訳ないのですが、それだけオリンピックに行く覚悟がなかったということです。日本代表として戦う覚悟、オリンピック選手になる覚悟、オリンピックで日本代表として戦う覚悟、何をしたいのか、オリンピックでどういうパフォーマンスがしたいのかを全く考えていなかった。それが「行けちゃった」ということのマイナスポイントだったと思いますね。リレーで朝原(宣治)さんにバトンを渡したくらいしか記憶にないです。あと、(一走の)土江(寛裕)さんが出遅れたっていう(笑)。
競技以外のことをしている時のことを覚えてますね。それくらい忘れたいのかもしれないし、思い出せるほど何も感じて来られなかった。そういった意味では自分の競技人生の色んなものが根底から覆されたというか。こんなに自分は小さかった、脆かったんだなと思わされた大会ではありましたね。

-競技人生のターニングポイントになったんでしょうか。

高平選手
ターニングポイントかもしれないですね。自分がこの場で勝負したいという、夢とか目標とかを描いていかないとやっぱり戦うことはできない。やっぱり僕らの時代はまだオリンピック選手になること自体が目標でしたから。決勝に残るとかメダルを獲れるという気持ちが、足りなかったんだろうなと今は思います。

-翌年の日本選手権も制覇されて、2006~2007は末續選手が再び200mに参戦。このころには高平選手は日本代表の常連となっていますが、2007年大阪の世界陸上、北京2008オリンピック、今振り返られるといかがでしょうか?

高平選手
大阪に関しては200mはもうちょっと勝負したかったです。同年代であるアメリカのスピアモン(200m自己ベスト19.65)とか、(ウサイン・)ボルトとかが上位に来始め(19.91で銀メダル)、(タイソン・)ゲイなどが陸上界を引っ張っていたところに、なんとなく決勝を思い描ける雰囲気が出てきたときだったので。それ以上に、自分のパフォーマンスが低かったなというところが凄く悔しいですね。正直やっと「悔しいな」と思うことができた世界大会で。年齢的にも充実しなきゃいけない、末續さん世代の素晴らしい選手(棒高跳びの澤野大地選手、110mHの内藤真人さん、走高跳の醍醐直幸さん、走幅跳びの池田久美子さんなど、1980年生まれの選手たちは”黄金世代”だった)のほとんどが惨敗という感じで終わってしまい、メダルも土佐(礼子・女子マラソン)さんのみでした。最後にリレーが(38.03の日本新記録で5位)盛り上がってくれましたけど。やっぱりメダルが欲しかったですし、大阪ってことで(関西が地元の)朝原さんに獲らせてあげたいという想いもありました。ほぼ、目標は達成できてなかったです。正直悔しい想いをした。でも、4継決勝の日に長居が満員になった状況は、日本でもできるんだなと思いました。その中で競技ができるという事は凄く幸せだと思えた。それを2020年に僕らが感じたことを、どう繋げていけるかということは重要だと思います。いろんな意味で、東京オリンピックへのリハーサルだったり、自国開催で選手がどのような思いをするのかということは、僕らしかわからないことなので。今の選手たちに還元できるような、2007年の大阪があって良かったなと思える部分を、多少なりとも作っていきたいのは僕らとしてはありますね。

-2007年は、振り返ると日本スプリントの躍進が本格化した年かもしれません。そして翌年の北京2008オリンピック、あのレースも逆境からの大逆転だったかと思います。予選を突破して決勝を迎えるまでの一晩、各種報道でも多く発信されましたが、改めて選手間同士での空気や会話はどんなものだったのか教えていただけますか。

高平選手
選手だけじゃなくてスタッフも手が届くという感触があったので、凄く重かったのは確かです。本当に報道でもあったように、為末(大)さんに助けられた部分もありますし、肩の荷が下りるじゃないですけどリラックスした雰囲気を作ってくれたのは確かだと思います。そのうえで自分たちがどこに向かっていくのかという事はしっかりと再確認した夜でもありました。末續さんがいきなりリンゴに文字書き始めたとか(笑)、色んなことがありましたけど、誰にもアドバイスをもらえないような状況って競技人生の中で初めてだったなと。朝原さんでさえわからない心境なわけです。おそらくあの当時そういったことが少しでも考えられる人は、室伏(広治)さんだけだったんじゃないかと思います。
今の選手たちは、手が届くんじゃないかとそわそわすることはないと思うんです。メダル獲得のために行っていると思うので。僕らが先輩たちから受け継いできたものを、今の彼らがものにしてくれている、素晴らしいチームが脈々と受け継がれているのかなと。結局はメダルを目指しているし、メダルを取るべき種目であるというところまで到達して、継続されているという事は色んなものが残っているという証だと思うので。僕らはたくさんの経験をさせてもらいましたけど、見えないバトンが受け継がれているのは確かだと思うので、これからはさらに一番上を目指してやることになっていくのかなと思います。
-2009年はご自身にとってもキャリアハイなシーズンとなります。200mでは自己ベストとなる20.22(+1.3)をマーク。この年、特に高いレベルでのパフォーマンスを発揮できた要因というのは何だったんでしょうか。
高平選手
いろんなことを考えていた2008年までと違って、自分がいいようにわがままにいこうかなと思える競技スタイルになったのが、2009年でした。いろんなものを経験したいと思いましたし、そのためには競技実績が必要となってくるのでそこを作り上げたいと思ったので。2010年は休むつもりでいたので、2009年でどこまで上に行けるかというのをやりたいなと思ってもいました。オリンピックのリレーのステータスもあったので、レベルの高い試合に出られることもメリットとしてあったんですよね。キャリアハイを目指すことは当然毎年そうなので当たり前でしたけど、そのうえで何がしたいかと考えるとヨーロッパの試合とか、世界大会をしっかり出たいと考える年ではありましたね。

-このシーズンには、日本のリレーチームでも高平選手がリーダーという立ち位置になっていたかと思います。朝原さんが引退、末續選手が休養に入って代表チームから離れられた時、高平選手の中で代表チームへの想いというのは、どのように変わられていったのでしょうか?

高平選手
そうですね。あの当時のメンバーで代表のリレーに関しては経験値が一番ありましたので。当時新しく入ったメンバーには江里口(匡史・大阪ガス)選手とか藤光(謙司・ゼンリン)選手や齋藤(仁志)選手がいました。ちょっとわがままにという気持ちがあったので、リレーに対してはいいものを残したいとは思っていましたが、引っ張っていくだとか中心にいなければいけないという自覚はそんなに無くてですね。勝手にやった結果がどこまで行けるかなくらいで考えていて。どうでもいいとは思ってなかったですけど、リレーにウェイトを置こうとは思っていたわけではなかったんです。

-2011年に再び日本選手権を制覇されて、翌年にはロンドン2012オリンピックに出場。ここで新たなメンバーとして飯塚翔太選手、山縣亮太選手が入ってくる。年齢的には高平選手より少し離れた選手たちとのチームで、2009年の多少わがままにという想いとの違いはありましたか?

高平選手
そうですね、もちろん。やはりオリンピックって舞台は世界陸上とは違って、色んな想いをそれぞれが背負って戦う場ですから色んなことが起こる、色んな選手が来る、色んなパターンが起こり得るということを、どれだけ選手同士で共有して決勝でどう戦うかということを、一番ターゲットにしなければいけないことと思ってました。僕の中では憧れというよりはリスペクトが強いんですけど、朝原さんがアテネ2004オリンピックの時に引っ張ってくれてた姿であったり、北京2008オリンピックの時に見せてくれてた輝きだったりというのを、ロンドン2012オリンピックで若い選手たちにどう感じてもらえるか、という立場になったことを凄く感じる年ではありました。
-飯塚選手、山縣選手に受け継がれ、リオデジャネイロ2016オリンピックで結実するのですね。
競技生活最後の話になります。2013年以降、非常に若手が台頭してきて高平選手に挑んでくる、もしくは超えてくる結果を残す状況になってきました。2000年代中盤に高平選手がいた位置に他の選手が入ってくる状況を、ご自身ではどう感じていらっしゃったんでしょうか?
高平選手
やっぱり悔しい思いはあります。ただ、勝負している以上そこは避けて通れないところです。ボルトでさえ、負けてるんですよね。そんなの当り前だと捉えなければいけない。僕は基本的に、勝ってる選手が必ずしも勝たなければいけないということは、勝負にはありえないと思っているので。ボルトでさえ世界大会で負けるわけですし、それを受け入れられない選手はトップになれないと思っています。どんなに連勝記録を積み上げてきた選手でも、それも一つの自分だと受け入れられないような選手はもうそこで終わりなんじゃないかなと思います。輝きを失うことも成績として残るから、結果は大切にしなければいけないかもしれませんが、そこに捉われているような選手はそんなに練習できないと思うし、そんなにいい選手ではないんじゃないかと僕は考えているので。
負けてメディアで取り上げられる選手が、やはり一流の証だと思います。あの時、負けましたよって、陸上界で言ってくれる選手ってそんなにいないと思うんですよね。そういう風に感じていただける、知っている人がいるということは、僕は凄くありがたいことだと思っていて。
踏み台にして、と言ったら自分のことなのにおかしいですけど(笑)。日本のトップになるということは、一人で競技をやっていることではないので、決勝で7人に勝たなければならないわけですし、代表になるためにはすべての人間を蹴落とさなければならないわけです。誰かがそこに立つということは、誰かがそこに立てないという事の証でもあるので、そういったことをどれだけ感じて自分のその後に活かせるか。負けが納得いかなくて全てをふいにするかどうかは、選手にとっては分かれ道でもあると思います。あまり、悪い風に受け取ることはなかったですね。負けたら負けたでその年の日本選手権者はその人だし、代表はその人なので。もちろんその人が世界大会に行けば頑張ってほしいとも思う。日本代表の男子短距離において、僕が素晴らしいと思っているのはそこができているところであって。誰が行っても結局納得できるというか、そのくらいのレベルで戦い始めているので。2008年当時はやっぱり大阪世界陸上のメンバーが行かなきゃだめだよねっていう雰囲気があった。僕はその時点でちょっと日本として弱いなと思っていたので。そういうことが今はない。それで結果も残ったということは、素晴らしいチームになってきているのかなと思う部分です。

その長いキャリアで高平選手が見てきた景色をお話いただきました。勝利を掴み取ったレースでも、実は非常に苦しい状況だったり、わがままに取り組んだシーズンがあったり。世界の舞台を踏んできただけではない、様々な経験が高平選手の強さの要因の一つであることが感じられました。
part.2では、高平選手ご自身に、その速さの秘密を語っていただきます。




SNSでのシェアはこちらから

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です