【大前祐介さん】インタビューPart.1 -“伝説”を残した、未完の大器-

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2001年、当時21歳の末續慎吾選手がエドモントン世界選手権200mで準決勝に進出。2年後の日本記録と世界陸上銅メダルにつながるきっかけを作りました。
しかしこの年、その末續選手を抑え、ランキング1位に立ったのは大前祐介(当時早大1年)さんでした。現在も残る200mジュニア日本記録20.29。そしてその15年後、100回目となる今年の日本選手権で、100mを制したケンブリッジ飛鳥選手(ドーム)の躍進の裏に大前さんの姿がありました。若くして日本トップレベルに肉薄し、日本スプリント界が世界へ挑む時代を作る一人だった大前さん。現役時代の激動の競技人生と、ケンブリッジ選手のコーチングの秘密に迫りました。


-かなり昔のことになりますが、陸上を始められたきっかけを教えていただけますか。

大前さん
小中学校と野球やっていたんです。中学校入ってからが野球は週末だけで、平日は陸上をやっていて。掛け持ちっていうよりも、比重はほぼ野球に置いていました。
中3になってからですかね、急激に伸びたんですよ。それまで、まずまず脚は速かった程度で中2までは12秒台で。そして中3の…、忘れないですよもう、7月の4週目です。都大会があって、100mで10.86だったんですよ。それで全国大会に出ることになって、行ったら行ったで経験がないものですから。全然相手にもならず、負けて帰ってきて、悔しい思いした、というのがありました。そのとき最後に親に言われたんですよね。部屋に来て、最後に一言、「野球やるでも陸上やるでもいいけど、陸上なら日本一取れるかもしれないな」、って。後押しがひとつあったので、陸上やるよと。頑張ってみるよと。ここからはもう陸上を、という感じですね。
-日本一、という言葉が、短距離の名門である本郷高校(東京)への進学の理由になっていくんでしょうか。
大前さん
そうですね、自分自身で考えながらやりたいなと思っていて、ずっと熱心に誘っていただいていた、恩師の西川先生のところで陸上をやろうと。
-その後、大前さんは高校トップクラスへと駆け上っていきます。200mが高2で21.1、高3で20.81ですね。成長の要因はどのように分析してらっしゃいますか。
大前さん
一つは素人だったということ何も知らない状態でスタートしているので、先生がひたすら基本を叩き込んでくれました。練習量が多いわけではないんですけど、しっかりしたフォームで走るといったことを叩き込んでくれたのが要因だと思いますね、あと、ぼく自身が体重が、高校に入学した時は50kgくらいだったんですよ。相当細くて長距離選手のようでした。
中学生当時の大前さん ※本人ご提供

中学生当時の大前さん ※本人ご提供

-細いですね!太腿などが本当に長距離選手みたいです。
大前さん
こんな状態からスタートしたので、やればやるほど身になっちゃうところがあったんでしょうね。それと、ウェイト・トレーニングに力を入れる学校だったので、オフシーズンは週に3回ウェイト・トレーニングがあるんですよ。ひたすらやり続けて、最初の1年で体重が12kg増えて62kgになりました。記録が伸びた要因の一つですよね。
-走るトレーニングに関して、特徴的だったものというと。
大前さん
無いっ、ていうとおかしいですが(笑)、ドリルとかせずに、ひたすら走るんですよ。チェックされるポイントは2つだけです。腕振りは肩の位置が傾かないようにまっすぐ振ること。重心の位置を高くすること。この2つだけで、あとはシンプルです。流しをやったら、50mを5本とか10本とかで終わりです。他には、スタートダッシュをやる日は、そればかりバンバンやる。あとはレペティションを200mか300m。今思えば、外国人みたいですよね。
-ケンブリッジ選手へのコーチングに反映されている部分はありますか。
大前さん
そこまでは無いんです。でも、無駄なことはする必要がないと思いますね。小手先のことをやる必要はない。ドリルとか一つ一つの動きがどうだとかということを、細かく言う必要が無いと感じています。根底にあるのが、脚は言うことをきかない、ということです。何をやっても、筋肉が大きいから。手先は器用だからいうことを聞きますけど、脚はどうかと言うと、本来言うことを聞かないものだと思います。そのマインドがあるので、ぼくは細かいことはやらない。大きな動きをしっかりと、少しずつ修正するという方向性です。
小手先の動きよりも最大出力を上げることのほうがウェイトが大きいと
大前さん
そう、効率よく脚を回転させるだけでいいだろうと。
-その効率的な部分を身につけるための反復練習だと。シンプルなことを追求していくんですね。
大前さん
そうですね、結局考えすぎてドツボにはまるパターンって結構あると思います。スタートがうまくいかず、ひたすら練習を続けたらどんどん悪くなって。ぼくも良くありました。うまくいかない時はうまくいかないんだと思って、他の練習やるっていうことを、けっこうやっていましたね(笑)。テクニック的なことを、特に高校時代にはあまりやった記憶はないですね。
-高校3年生で迎えた2000年岐阜インターハイ100mはハイレベルな争いで、「聖戦」とも言われたレース。残念ながら、勝つことはできませんでした。
大前さん
僕自身が夏弱いんですよ。自分自身に、そうしたレッテルを貼ってしまっているところがありますが、夏が弱かったんですよね。7月8月だけピンポイントに弱い。毎年そうで、インターハイは1年生が予選落ち、2年生でも予選落ち。3年生で入賞した時は逆に「あ、入賞できた」と(笑)。よかったなっていう、逆にそういう発想だったんです。高3の最大の目標は世界ジュニアをターゲットにしていたので、インターハイでまあまあだったら、世界ジュニアでは結果が出る、というプロセスが僕の中では描かれていました。僕のバイオリズムがあったので、 「インターハイでこのタイムなら全然大丈夫」だと思っていました。
-高校生ならば、インターハイで結果を出したい、という気持ちは何よりも強いかと想像をするのですが。
大前さん
もちろんありました。ただ、インターハイはリレーで優勝したかったんです。リレー決勝では、三走のぼくがバトンを渡した時点では「あ、これは高校記録出たな」と思って。優勝した添上高校から5mくらい前にいたんですよ。39秒台出るなと思いました。
-しかし、添上のアンカー・田仲選手が爆走しました。
大前さん
そうでしたね、うまくターゲットにされちゃいましたね。40.27を出した添上高校に敗れました。そこで優勝したかったなっていうのがいちばん強い想いでした。個人はそこまで悔しいということは無いです。
-夏場の体調を把握されていたから、早くから世界ジュニアに照準を合わされていたんですね。
大前さん
高2の世界ユースで悔しい思いをしていたので、世界ユースの借りは世界ジュニアで返すしかないと思っていて。世界ユースは9番で落ちたんですよ。ここで返すしか無いなと。
-そしてキングストン世界ジュニア200mで、当時の高校歴代2位となる20.81(現9位)をマーク。会心のレースだったんじゃないでしょうか。
大前さん
会心でしたね。予選も向かい風の中で20秒台を出して、調子いいなと。マイルがあるかもしれないと言われていて、400mの練習もちょっとやっていたんです。それがうまくハマったというのはありましたね。後半も余裕を持っていけました。アメリカやジャマイカの選手を自分の後ろで走らせるなんて気持ちいいなっていう想いはありましたね。
-翌年、早稲田大学に進学されます。ここで、一つのレースを観てみたいと思います。2001年、日本ジュニア200m。現在も残る20.29のジュニア日本記録を出されたレースです。

大前さん
そうですね、日本人ではないですよね、今思うと。(動画を観ながら)半端じゃなく速いですね、これ(笑)。
-これだけハイレベルな日本ショートスプリント界で、15年たっても破られない日本ジュニア記録20.29。”伝説”と言っていいレースです。世界ジュニアチャンピオンの飯塚翔太選手も、100m日本ジュニア記録保持者の桐生祥秀選手も、破ることができなかった記録ですね。
大前さん
サニブラウン(・アブデル・ハキーム)選手も、なんですよね。彼が抜けなかったらもう抜かれないかもしれないですね(笑)
-今振り返られるとこのレースはいかがでしょうか。
大前さん
とにかく調子良かったですね。実はこの2、3週間前が日本選手権だったんですよ。決勝で2位だったんですが、世界陸上の代表からは落ちたんです。いまでこそ笑って話せますけど、当時はやっぱり悔しい想いが強かったです。「それじゃあ、他で記録を出すしか無い」と、この日本ジュニアに合わせていきました。
予選の方がすごかったんですよ。直線はほぼ流して、ジョグみたいにゴールして20.5です。そのまま走っていたら、19秒台出ていたのでは、っていうくらいに調子が良かったんです。調子が悪いときは横ブレが激しいフォームになってしまうんですが、それもなく、真っ直ぐスーっと行けたっていうことがひとつ。あとはヒザ下のコントロールが上手くいったんです。ヒザ下でポーンと返してくるところがすごく上手くできていて、そこがすごく速かったですね。重心の真下で捉えられていたのがポイントですね。全然疲れることなく、最後までスーっと走り抜けていました。
-最後までバタつかずに走り抜けていますよね。
大前さん
そうですね、あと50mあっても大丈夫なんじゃいか、って感じでしたね。
-このレースの2週間後に、当時の学生種目別選手権というレースでも20.5台をマークされました。明らかに地力として、末續選手に匹敵するレベルに合ったということがわかります。
大前さん
無双状態にありましたね(笑)。そういう感覚ってあるんですよ、ケンブリッジもあるんじゃないですかね。確変状態に入っている感じですよね。何をやっても勝てるっていう。自信過剰とかそういう類のものではなくて、どうやっても勝てるっていう。
-スイッチが完全に入っている、と。
大前さん
入っている。だから、トラックに入っても余裕があるんですよね。スタート直後に勝ったな、ってわかる。このレースはいったなとか。
-絶好調の走りでした。しかし、このレースから程なく、肉離れに見舞われます。
大前さん
それが、僕の悪い部分ですよね。ケアを怠ったんですよ。高校時代は先生が手厚くやってくれて、ケアまで含めて面倒見てくれていたんですが、このときは僕に足りていない部分だったんです。それとウェイトトレーニングの量が確実に減っていました。今思えば、高校3年の貯金でやっているんですよね。その貯金が切れたのが7,8月。大きいケガを一度した後は、そこからケガの連続です。
-その後何度も、大前さんが全力で走れさえすれば、という想いでレースを拝見していました。
大前さん
調子が上がってきて、いけそうだなって思ったらまたケガをするんです。最悪でしたね。こっから大学4年までずっとそんな調子でした。
-大学3,4年も、世界大会まであと一歩というところまで迫っています。
大前さん
2003年は世界選手権参加A標準も出していましたが、日本選手権の決勝でダメでした。
-末續選手が現在も残る日本記録20.03を出したレースです。
大前さん
ぼくそのレースでもケガしているんですよ。2004年には関東インカレで3冠獲っているんですけど、100mで最後にケガしています。そのまま治らず、2週間後が日本選手権。当時は6月上旬開催で、ひたすらケアの連続でした。その時にはケアのいい先生に巡り会えて、継続してやってもらっていて調子が上っていたんですが、脚やっちゃいましたね。鳥取でのレースでしたけど、現地に入ってからようやくスパイクはいたんです。よく走ったなと思います。今年みたいに6月末だったら結果は違ったかもしれないですね。
-3位でした。
大前さん
その年も+2.1の風で20.52出してて、+2.0だったら3番なんでオリンピックに行けていたかもしれないんですよね。運が無いんですよ(笑)。出るときは出るし、出ないときは出ない。陸上は、運の要素はものすごいあると思っています。

日本スプリント界が世界トップクラスへと登りつめていくきっかけになった21世紀初頭、大前さんが見せた圧倒的なポテンシャルは、ひときわ輝きを見せていました。多くのセンスが揃う200mで、15年間破られない日本ジュニア記録。その足跡はたしかに、日本陸上界に刻まれました。
しかし、ホープのその後の競技人生は、ケガと戦い続ける日々。この経験が、その後のコーチングへと反映されていきます。
インタビューPart.2では、第二の陸上人生を歩む大前さんの姿に迫ります。




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